越中万葉歌


射水市は万葉線の駅にその地にまつわる万葉歌を紹介している。

 朝床に 聞けば遙けし
    射水川
 朝漕ぎしつつ 唱ふ舟人
      (大伴家持の歌 巻一九・四一五〇)
 【歌の意味】
 朝の床のなかで耳を澄ますと、遙か遠くから聞こえてくる。
 射水川を朝漕ぎしながらうたう舟人の声が。

  天平勝宝二年(七五〇年)三月一日の夕方から三日の朝にかけて、
 大伴家持がよんだ一二首の最後の歌です。
 この十二首を越中(今の富山県)でよんだ家持の代表作として
 「越中秀吟」と呼んでいます。
  射水川(今の小矢部川)を漕ぎのぼる舟人の歌声を聞いて、
 当時の都があった平城京(今の奈良市)を離れて一人でやって来た家持は、
 突然さびしさを感じました。
 このときの舟人の歌声がどのようなものだったかは、全く想像できません。
 しかし、家持の心が大きく揺り動かされたことだけは確かです。

                         射水市



 奈呉の海人の 釣する舟は
   今こそば 舟棚打ちて
         あへて漕ぎ出め
      (秦八千島の歌 巻一七・三九五六)

 【歌の意味】
 奈呉の浦の海人たちが釣りをする舟は、
 今こそ舷(舟のへり)の横板を勢いよくたたいて、
 どんと漕ぎ出すがよい。

  天平十八年(七四六年)、大伴家持は国守(今の県知事のような職)として
 越中(今の富山県)にやってきました。
 そして、家持を歓迎する宴のひとつが、部下の秦八千島の館でひらかれました。
  八千島の館は、今の高岡市伏木の高台の、
 とりわけ見事に奈呉の浦(今の新湊市一帯の海)が見えるところにあったようです。
 当時の奈呉の浦には漁師がたくさん住んでいたのでしょう。
 その漁師たちの威勢のよさを「ぜひ家持さまにみせたい」と思って、
 八千島はこの歌をよみました。

                         射水市


 奈呉の海の 沖つ白波
 しくしくに 思ほえむかも
         立ち別れなば
      (大伴家持の歌 巻一七・三九八九)

 【歌の意味】
 奈呉の海の沖の白波がひっきりなしに立つように、
 私もひっきりなしにみんなのことを思い出すだろう。
 旅だってお別れしたのならば。

  天平一九年(七四七年)、大伴家持は正税帳という収支決算書を提出するために、
 当時の都があった平城京(今の奈良市)に出かけることとなりました。
 出発前の四月二〇日(今の暦で六月二日)、
 部下の秦八千島の館で送別会が行われました。
  八千島の館は奈呉の海(今の新湊市一帯の海)がよく見えるところにありました。
 そこで家持は、目の前に広がる美しい白波によせて、
 留守のあいだも仕事を続ける部下たちを思いやる気持ちを歌によみました。

                         射水市


 あゆの風 いたく吹くらし
  奈呉の海人の 釣りする小舟
         漕ぎ隠る見ゆ
      (大伴家持の歌 巻一七・四〇一七)

 【歌の意味】
 「あゆの風」が激しく吹いているのだろう。
 奈呉の浦の海人たちが釣りをする小さな舟がこいでいくのが、
 波間に見え隠れしている。

  天平二〇年(七四八年)正月二九日、(今の暦で三月二日)に、
 大伴家持がよんだ歌で、越中(今の富山県)にいたときの代表作のひとつです。
  じつはこの歌の「あゆの風」という言葉には、
 「越の俗の語に東風をあゆのかぜと謂ふ(越中の方言で東風を
 「あゆのかぜ」と言う)」という説明がついています。
 家持が育った平城京(今の奈良市)では春のはじめに吹く
 強い東風を「こち」 と呼んでいました。
 それを越中では「あゆの風」と言うのに驚き、
 みんなにも伝えたいと思った家持が、この説明を加えました。
  海から吹いてくる激しく冷たい北風でっても、
 待ちに待った春を告げる風にはちがいありません。
 「あゆの風」という言葉には、
 春が来たことを喜ぶ家持の気持ちがこめられています。

                         射水市


 湊風 寒く吹くらし
  奈呉の江に 妻呼び交し
          鶴さはに鳴く
      (大伴家持の歌 巻四〇・一八)

 【歌の意味】
 河口の風が寒々と吹いているのだろう。
 奈呉の入り江で、つがいがお互いを呼びあって、
 鶴がたくさん鳴いている。

  天平二〇年(七四八年)正月二九日、(今の暦で三月二日)に、
 大伴家持がよんだ歌です。
  当時の奈呉の(今の新湊市一帯)は鶴がたくさん飛びかう場所だったようです。
 万葉集の歌人たちは旅先で鶴の鳴き声を聞くと、
 家で留守番をしている人のことをなつかしく思い出しました。
 家持もまた都(今の奈良市にあった平城京)に妻を残して
 越中(今の富山県)にやって来たので、
 雄の鶴が「妻(=雌)」と呼びあっている声を聞いて、
 急に都がなつかしくなったのです。

                         射水市


 奈呉の海に 舟しまし貸せ
   沖に出でて
 波立ち来やと 見て帰り来む
      (田辺福麻呂の歌 巻一八・四〇三四)

 【歌の意味】
 奈呉の海に出るので舟を私にちょっと貸してください。
 沖に漕ぎ出て、波が立ち寄せてくるかどうかを見て帰って来たいのです。

  天平二〇年(七四八年)三月二十三日(今の暦で四月二五日)、
 都から仕事でやってきた田辺福麻呂を歓迎する宴が、
 大伴家持の館でひらかれました。
  当時の都があった平城京(今の奈良市)には、海がありませんでした。
 家持の館は高岡市伏木の高台にあったので、
 奈呉の海(今の新湊市一帯の海)をながめることができたのでしょう。
 そこで、ふだん目にすることがない海を目の前にした福麻呂は、
 「波はどこから寄せてくるのだろうか」という好奇心を、
 すなおに歌によみました。

                         射水市


 波立てば 奈呉の浦みに
  寄る貝の 間なき恋にそ
         年は経にける
      (田辺福麻呂の歌 巻一八・四〇三三)

 【歌の意味】
 波が立つたびに奈呉の浜辺へと絶え間なく寄せてくる貝のように、
 私も絶え間なくあなたのことを恋しく思っているうちに、
 年月が過ぎてしまいました。

  天平二〇年(七四八年)三月二三日(今の暦で四月二五日)、
 都(今の奈良市にあった平城京)から仕事でやってきた田辺福麻呂を歓迎する宴が、
 大伴家持の館でひらかれたときの歌です。
  家持と福麻呂は、前からの友だちだったようです。
 友だちと久しぶりに会えた福麻呂はとてもうれしかったのでしょう。
 波によって浜辺へとうち寄せる貝に思いをこめて、
 まるで恋人と会えたときのような喜びを歌によみました。

                         射水市


 奈呉の海に 潮のはや干ば
   あさりしに 出でむと鶴は
         今ぞ鳴くなる
      (田辺福麻呂の歌 巻一八・四〇三四)
 【歌の意味】
 奈呉の海には、潮が引いたらすぐにでも餌をさがしに出ようと、
 鶴が今しきりに鳴いているようです。
 
  天平二〇年(七四八年)三月二三日(今の暦で四月二五日)、
 都(今の奈良市にあった平城京)から仕事でやってきた田辺福麻呂を歓迎する宴が、
 大伴家持の館でひらかれたときの歌です。
  万葉集の歌人たちは旅先で鶴の鳴き声を聞くと、
 家で留守番をしている人のことをなつかしく思い出しました。
 福麻呂と家持はどちらも都で妻が留守番をしていたので、
 「いっしょだ」という気持ちを福麻呂は読みました。

                         射水市


 あゆをいたみ 奈呉の浦みに
   寄する波
 いや千重しきに 恋ひわたるかも
      (大伴家持の歌 巻一九・四二一三)

 【歌の意味】
 「あゆの風」が激しく吹いて、奈呉の浜辺へとくり返しくり返し寄せてくる波のように、
 私もますますしきりにあなたのことを恋しく思いつづけています。

  天平勝宝二年(七五〇年)五月に大伴家持が、
 当時の都があった平城京(今の奈良市)に住む親類の家に贈った歌です。
 海を見たことがない親類の女性を懐かしむ気持ちを、
 くり返し寄せてくる波にこめています。
  「あゆの風」という越中(今の富山県)の方言や、
 「奈呉の浦」(今の新湊一帯)という風景をよんだのは、
 都に住む人にもぜひこのすばらしさを知ってほしいと思ったからです。

                         射水市




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