富山地方鉄道富山都心線 電停個性化スペース


富山地方鉄道の富山都心線は、
富山市が路盤の敷設と整備、車両の購入を担当し、
運行は富山地方鉄道に委託する“上下分離・官設民営方式”を採用、
そのため電停デザインは富山ライトレールに似て、
電停個性化スペースも設置されている。
個性化スペースには「地域の景観、歴史を掲示」しているスペースである。


国際会議場前

 富山城

 江戸時代の富山城は、加賀前田家の分家である、富山前田家10万石の居城でした。
 寛文元年(1661)以後、初代藩主前田利次によって整備が進められました。
 城の中心であった本丸御殿は、藩主が政治を執る場であり、また生活の場でもありました。
 初代の本丸御殿は、正徳4年(1714)に失火で焼失してしまい、
 その後、100年余り本丸御殿は存在しませんでした。
 天保4年(1833)、2代目の御殿が再建され、明治32年で焼失するまで残っていました。


 大手通りのはじまり

 市民プラザの少し南側あたりに、富山城の正門である大手門があったことから、
 この通りが大手通り(現在の大手モール)と呼ばれました。
 この大手通りは、明治の廃城後、富山城の本丸と二之丸をつなぐ土橋から三之丸の屋敷の間の道、
 そして大手門を結んでできた道です。
 また、富山国際会議場付近には、
 三之丸から二之丸への入り口である二階(にかい)櫓門(やぐらもん)がありました。
 この門は、城の中枢部を守るための重要地点であり、また、
 威儀を正さなければならない場所ともなっていました。


大手モール

 市内電車の開通

 大正2年に市街に初めて市電が開通しました。
 同年開催された共進会(博覧会の前身の呼称)の会場と市街を結ぶため、
 富山駅前−小泉町間の本線と富山駅前−西町間の支線(全線5.0km)を開通させました。
 その後、大正4年小泉町−堀川新駅前間、大正5年郵便局前−呉羽公園下、
 昭和3年西町−東田地方間、昭和11年東田地方−電気ビル間が開通し、
 市の中心部を一周する環状運転が開始され、10.8kmの路線となりました。
 ここに東西、南北の縦貫線に富山駅、西町という二つの中心地を環状線で結ぶという
 富山市内の幹線交通が形成されました。



 昭和期の市内電車

 市内軌道は、昭和20年の戦災によって全線損傷をうけましたが、
 富山市内の道路復興計画の進行に応じて復旧が進められました。

  昭和21年 富山駅前−南富山間、西町−新富山間 復旧
  昭和23年 西町−雪見橋間、雪見橋−上り立町間 復旧
  昭和24年 駅前−旅籠町間、上り立町−電気ビル間 復旧

 昭和27年からは、市内軌道整備計画により大改修が行われ、
 昭和36年には山室線の新設が行われました。
 しかし、昭和40年代以降は、車社会の進展により路線が縮小されました。

  昭和27年 丸の内−安野屋間 開通、旅籠町−安野屋間 廃止
  昭和29年 環状線全線の複線化完成。新富山−大学前間 復旧
  昭和36年 山室線(中教院前−不二越駅前間)開通
  昭和42年 系統の大改正により6種類の系統を運転
  昭和47年 中教院前−北新町−地鉄ビル前間を廃止
  昭和48年 西町−旅籠町−丸の内間を廃止
  昭和59年 西町−不二越駅間廃止


グランドプラザ前

チンドンコンクール

 毎年4月上旬に行われるチンドンコンクールの始まりは50年以上前にさかのぼります。
 昭和20年の富山大空襲により、市街地は壊滅状態となりました。
 その後、人々が焼跡から立ち上がり、氏の復興がほぼ完成した昭和30年、
 富山市に明るさと平和感を与えようと、
 富山商工会議所や富山市の発案で「全国チンドンコンクール」が誕生しました。
 例年この全国一を競う舞台に、東西からたくさんの趣向を凝らしたチンドンマンが参加し、
 沿道の人々の熱烈な声援を受け、会場一帯が笑いの渦となります。



 旧北陸街道

 市電環状線が通るこの道は、江戸時代の北陸街道にあたります。
 現在、道幅は約36mありますが、
 江戸時代は5間(約9m)だったことが発掘調査により確認されました。
 当時と比べ、南側に27m拡張されており、通りの南半分は家屋の敷地にあたります。
 また江戸時代から、この周辺は二番町(現在の総曲輪三丁目・西町)と呼ばれていました。
 これは、富山時用の大手前から、城の東にある藩主菩提寺の光厳寺(こうげんじ)までの道筋に沿って、
 一番町から順に五番町までに町名をつけた(四番町は無し)ことによります。




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